粟田風土記

H大神宮大奥様よりの聞き伝え

昔、やんごとなきへ方の乳母を選ぶ際、一度そのお乳を粟田焼のお皿に取っておいておいたそうです。一日経って、そのお乳が澄んでいたら良いお乳、良くないお乳はお皿のそこに沈殿してしまったとか・・・。

粟田の土、発見!?

平成11年秋、三条通り東山ドライブウエィ上り口の交差点辺りを工事していました。そこに粘土層を発見!
少しもらってきましたので、焼いてみようと思っています。。

クレーン車の向こうの灰色の層です。

ウチの伯母からの聞き伝え

「三文字屋さん(最初の粟田の陶工)の末裔の人はウチの借家(地下鉄蹴上駅1番出口辺り)にいて下さっていて、張り付けなんかの下職をして下さってたんや。昭和38年頃官舎へ移って行かれたけれどその後は知らんなぁ・・・。どうしたはるやろう???」
三文字屋は寛永元年(1624)に瀬戸から来た陶工として『青蓮院旧記』に記載されている粟田の名家。宝暦5年(1755)に将軍家御用焼物師の地位を辞すまでは知られていたが、その後200年以上もの間粟田にいて、陶器を生業とする家であったことに敬服する。

某お茶道具屋さんにて(平成12年6月)

直径6~7㎝の手塩皿を見つけた。共箱である。蓋の甲右上部に『御菩薩手塩皿』とあり、左下に
『御茶碗師岩倉山造 印』とある。品物の印は紛れもなく御菩薩の印。土も良く精製された上質のもので、絵付けも御菩薩らしいもの。貫入・釉薬の調子もgood。(ついでにお値段もgood)
ということは、一時期粟田の岩倉山が御菩薩焼を造っていたということであろうか・・・? 岩倉山は御菩薩の系統を引く家とは聞いていたけれどその証拠かナァ?

某金融関係前理事長様のお話

私「その節(昭和28年京都陶磁器合資会社=祖父の代の会社倒産時)は大変ご迷惑をおかけして申し訳御座いませんでした。この仕事を始めてからいろいろな方と巡り会いますが、いまだに『ウチの親父は若かった頃アンタのじいさんの会社に絵付けしに行っとった・・・』とか『源三郎さん(祖父の兄弟)のところへよう納品に行ったよ』とかのお話をお聞かせいただくことがよくあるんです。その度に『その節は大変ご迷惑をおかけして申し訳御座いませんでした』と、平謝りに謝っています。」
前理事長様「(笑)私もねぇ、担保を押さえさせてもろて売ったけど、あのときは逆に利益が出て、余った分返しに行きましたよ。それだけしっかりしたモン、お持ちやった、あんたのじいさんのお店は・・・」
有り難く拝聴したが、関係者の方々へのお詫びの気持ちは今も変わらない。

永楽善五郎先生(平成13年11月)

今日、とある用事で当代永楽善五郎先生にお会いしてきた。いろいろお話しさせていただく中で粟田焼の話になると「ウチも保全や和全の頃は粟田の帯山さんの窯で焼いてもらってました。あの当時、なかなか新しい窯が(当局の規制で)築けなかったでしょう、ですから素焼までして、薬掛けて持っていっていたようです」とおっしゃり、驚いた。
永楽家は十代了全の代になると土風炉の他に茶陶へ進出し始めている。大徳寺大綱和尚の仲介により了全の養子に迎えられた十一代保全(1795~1854)は享和年間 (1801~03)粟田の岩倉山家で修業していることは 『陶磁器業者ニ関スル取調書』により知っていたが、その後も、焼成を粟田の窯に頼っていたことは初耳であった。永楽家は了全以来明治十五年まで樂家と同じ油小路一条の油橋詰町に住まいがあったが、そこから粟田まではかなりの距離である。当時の粟田の諸窯の作品バリエーションに比べ、保全のそれは格段に広い。色絵陶器をはじめ祥瑞、古染付、金襴手、安南写、交趾まで実に多彩多芸である。

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