粟田焼の歴史– 粟田焼沿革 –

その昔、京都には諸国と結ばれた七つの街道がありました。

その街道が京都に至る入り口を『京の七口』といいます。その一つが『粟田口』です。

江戸から京の都へと至る東海道五十三次の終点でもあり、現在も平安神宮やウェスティン都ホテルのある三条通り神宮道あたりをそのように呼んでいます。

粟田焼は、江戸時代頃からこのあたりで盛んに焼かれた京焼きの総称です。

平安神宮の大鳥居

粟田焼の始まり 江戸時代初期

元和年間(1615~24)の頃より焼き物の窯の煙がたなびき始めました。粟田焼の始まりです。「京焼最古の窯」とする辞典もありますが、それは少し言い過ぎかと思います。しかし、いずれにせよ、京都の焼き物史の極めて初期から存在し、「古清水」と呼ばれる作品群の大きな位置を占めていた。それが粟田焼(粟田口焼)であります。
もう少し詳しく見てみましょう。その頃の文化サロンの中心人物、鳳林承章(金閣寺住持)の『隔冥記』※1は当時の禅林、公武、庶民の実状を伝える史料としてよく用いられますが、その中で、盛んに出てくるのが、 粟田口作兵衛という陶工の名や『粟田口焼 茶入』といった記述です。その頃、京都の上層階級では茶ノ湯が大変盛んでした。その茶器のオーダーを受けていたのが粟田の陶工たちであったのです。

粟田最初の陶工、三文字屋九右衛門は瀬戸からやってきた人です。ですから初期の粟田は、瀬戸ぐすり、黒ぐすり、飴ぐすりの釉薬の掛かったものがあったようです。その他伝世の作品として信楽写しの焼締陶器※2や、朝鮮系のものの写しが焼かれた記録もあります。

色絵京焼の登場 江戸時代中期

その後、京焼では野々村仁清という人物が活躍します。彼は京都府北部出身で、粟田でロクロの修業をし、瀬戸で釉薬の勉強をして帰京、御室の仁和寺近くで開窯したのですが、彼の出現が粟田焼を含めた京都の焼き物の世界を一変させます。即ち、それまで釉薬だけ掛かったものか、鉄と呉須で描いた所韻「銹絵染付」の簡素な作品であったものにカラフルな色絵の世界が繰り広げられてゆくのです。仁清は色絵京焼の祖であります。

京都には焼き物以外に漆器や織物、絵画・・・、などいろいろな工芸品・文化が集まり、あふれておりました。そうした焼き物以外の品々からヒントを得て、たとえば本来なら漆器で作る重箱を焼き物で作り、そこに着物の小紋の柄を入れるといった様な、今風に言えば『コラボレーション』などと言うことが盛んに行われたのは京都という土地柄、地の利であったようです。

また、粟田焼の大きな特徴の一つとして、青蓮院御門跡の御用窯として栄えたことが揚げられます。この頃の粟田焼の箱書に『有職陶器』と書かれてあるのを見たことが有ります。今ではちょっと聞き慣れない言葉ですが、そこに粟田焼としての責任とプライドが感じられた気がしました。


第二の黄金期 江戸時代後期

この頃の粟田にゆかりがある陶芸家を揚げてみると、永楽家のスーパースター、十一代保全はその若き日々を粟田で修業していますし、二代目高橋道八の仁阿弥道八※3も五条に移る前は粟田に居りました。歌人、大田垣蓮月は手びねりの作品を窯元に持ち込んでいます。青木木米の窯は現在の地下鉄蹴上駅出口のあたりにあったようです。こういった人々が第二の京焼の黄金期を形成します。

そのほか二十戸以上の大きな窯元があり、日々多くの陶工が土を揉み、ロクロを回し、窯を焚いておりました。

海外への進出 明治~大正時代

明治維新、それは粟田焼にとってもう一つ大きな波でした。公家や武家の御用焼き物師として栄え、雅な作品を産み出して来たこの町が見いだした新たな市場は、海の向こうの人々でした。薩摩焼の金襴手の技法に京都ならではの垢抜けした意匠を織り込んだ粟田焼は「京薩摩」として欧米で大変もてはやされました。当時のヨーロッパの美術界は沈滞期にありましたが、そこに大きな波紋を投げかけたのが、日本の開国だったのです。当時各地で盛んに開催された万国博覧会には六代目錦光山宗兵衛をはじめ粟田からも多くの作品が出品され、数多くの受賞記録が残っています。そういったことをきっかけに、彼の地では後のジャポニズム、アールヌーボーへのムーブメントへと展開してゆくのです。

開国当時非常にもてはやされた粟田焼でしたが、旧態依然としたデザインや装飾性の過ぎた飾り壺、貫入にシミが入り込む事による食器としての欠点などにより敬遠された時期もありました。貫入の出ない生地が研究されたのもこの頃です。

京 薩 摩とは

明治・大正期を中心に京都において制作された薩摩金襴手様式の陶器を「京薩摩」という。端正な象牙色の素地に施された精緻な金彩色絵と、京都ならではの洗練された意匠が特徴的で、主に欧米への輸出用に制作された。


粟田焼の終焉と復活 昭和~平成時代

昭和二年の世界恐慌と二度の世界大戦は、海外に顧客の多くをもつ粟田焼にとって致命傷でした。私の祖父の会社、京都陶磁器合資会社はブラジルや上海に支店を持ていたのですが、それらはすべて大戦で没収されてしまいました。(損害額は当時のお金で2000万円だったそうです)。

ここで産業としての粟田焼は終わりをつげます。昭和二十年代末のことです。

その後、粟田の火を受け継いだのが伊東陶山さんや楠部彌弌さんなどの日展系の作家となられた方々でしたが、陶山さんが昭和四十五年、楠部さんが昭和五十九年にそれぞれ亡くなられ、火は完全に途絶えてしまっていたのです。

このあと、このホームページの管理人である わたくし安田浩人が途絶えてしまった粟田焼の復興を志すのですが、そのいきさつは「ごあいさつ」のところでゆっくりお話させて頂いております。

まとめ 伝統の美を未来へとつなぐ

粟田焼の特徴を尋ねられる事がよくあります。少し黄色味又は灰色を帯びて、細かい「貫入」と呼ばれるひびの入った様なうわぐすりの生地に、銹絵染付の様なあっさりした絵や、緑・青を基調に赤・紫等の色使いをした色絵ものが最もポピュラーです。

が、これまでお話しました様に、実際は時代によっては瀬戸ぐすり的なもの、信楽写し的なもの、薩摩様式の絵付、アール・ヌーボー調、はたまた個人作家の作品的なものまで様々です。そのすべてがここ、粟田の地で焼かれた焼き物なのです。

私の好きなのは銹絵染付の絵付のある江戸時代の粟田焼です。何とかいにしえの粟田焼の風格をそなえた作品をと願うのですが、なかなかうまくいきません。今日のものとちょっと何か、何かが違うのです。それは、土であり、窯であり、焼き方であり、・・・・・・・。でも多分、もっと違うのはそこに流れていた時間と空気と人の心ではなかったか・・・・・、私にはそう思えてなりません。

以上、四百年近い時間を大まかに見てみました。知れば知るほど粟田焼の特徴を一言でなかなか言い表せないことが、お判り頂けましたでしょうか?

※1『隔冥記』・・・かくめいき。本来の「冥」の字は「くさかんむり」に「冥」
※2焼締陶器・・・今日『仁清信楽』と言われる場合があります。仁清信楽は、信楽風の焼締の風合いに京都らしい繊細な細工の焼き物が見受けられます。
※3仁阿弥道八が五条に移って築窯したのは粟田の株仲間的と言うか封建的な気質を嫌っての事、と言うことを先輩の陶芸家の方からお聞きしたことがあります。