安土桃山
西暦 和暦 | 粟田焼関係事項 | 他の焼物に関係する事項 | 茶道関係事項 | 一般事項 |
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1502 文亀 二 | 村田珠光没 武野紹鴎誕生 | |||
1516 永正一三 | 金春禅鳳ら奈良で「茶の湯」の記事『禅鳳雑談』 | |||
1522 大永 二 | 千利休誕生 幼名与四郎 のちに宗易 | |||
1525 大永 五 | 武野紹鴎、京都へ移る | |||
1526 大永 六 | 『宗長日記』『二水記』に下京茶湯者村田宗珠の記事 武野紹鴎、連歌の記録有り | |||
1528 大永 八 | 武野紹鴎、三条西実隆を初訪問 | |||
1533 天文 二 | 『松屋会記』書き始められる | |||
1543 天文一二 | 古田織部、美濃に誕生 | 鉄砲伝来 | ||
1546 天文一六 | 織田有楽、誕生 | |||
1548 天文一七 | 『天王寺屋会記』書き始められる | |||
1549 天文一八 | 十四屋宗伍没 | |||
1554 天文二三 | 雲林院要蔵、御菩薩に築窯 | 一?軒宗金『茶具備討集』著す 『今井宗久茶湯日記書抜』書き始められる | ||
1555 弘治 一 | 武野紹鴎没五四才 | |||
1557 弘治 三 | 初代雲林院(寶山)要蔵康光没 | |||
1558 永禄 一 | 初代西村宗禅没 二代宗禅泉州堺へ移り住み土風炉制作を専業とする | |||
1568 永禄十一 | 二代雲林院(寶山)安平康成没 | 九月 織田信長、足利義昭を奉じて入京 | ||
1573 天正 | 天正年間、四代雲林院(寶山)安兵衛、秀吉の命により大仏殿の茶碗を焼く | |||
1574 天正 二 | この頃千宗易、織田信長の茶頭となる | |||
1576 天正 四 | 蘭叔玄秀『酒茶論』著す。陸羽の『茶経』引用 | |||
1577 天正 五 | 長次郎、楽焼を始める | |||
1582 天正 十 | 安田源左衛門尉宗光、天目山の戦い敗戦を機に京都洛東清閑寺村に移り住み、農の傍ら作陶 | 本能寺の変 信長没 | ||
1583 天正十一 | 八月、秀吉、大阪城を築く | |||
1585 天正十三 | 三代雲林院(寶山)熊之助康為没 | 秀吉、禁中にて正親町天皇に茶を献ずる 利休が茶堂を勤める | 七月、秀吉、従一位関白となり、姓を藤原と改める | |
1587 天正十五 | 十月、秀吉、北野大茶会を催す | 九月、聚楽第が完成し、秀吉大阪城より移る | ||
1588 天正十六 | この頃、山上宗二が『山上宗二記』を書く | |||
1589 天正十七 | 長次郎没 | |||
1590 天正十八 | この頃『利休百会記』始まる | |||
1591 天正十九 | 黒谷で土器の製造始まる | 千利休没七十才 | ||
1592 文禄 一 | 文禄の役(~93) | |||
1594 文禄 三 | 二代西村宗善没 | この頃千少庵、許され会津から京都に帰り千家を再興 | ||
1595 文禄 四 | 四代雲林院(寶山)安兵衛為宗没 | 音羽焼始まる | ||
1596 慶長 一 | 奥村次郎右衛門、 朝日焼を始める 李参平渡来 | |||
1597 慶長 二 | 慶長の役(~98) | |||
1598 慶長 三 | この頃三代西村宗全、堺から京都へ移住。 後、小堀遠州の用命をうけ、「宗全」の銅印を賜る。以後九代まで風炉底に宗全印を捺用。 | 豊臣秀吉没 | ||
1600 慶長 五 | 関ヶ原の戦い 英国、東インド会社設立 | |||
1601 慶長 六 | 千宗旦、春屋宗園より元叔の堂號を授く | |||
1602 慶長 七 | 七月二六日「豊国廻廊之瓦修理申付粟田口瓦師甚三郎申者也」 『舜旧記』 | 「三条之今やき候者共・・・」 (肥前佐賀藩主、鍋島勝茂が国許の家老鍋島生三に宛てた書状) |
江戸初期
西暦 和暦 | 粟田焼関係事項 | 他の焼物に関係する事項 | 茶道関係事項 | 一般事項 |
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1603 慶長 八 | 四月 一日 「廻廊之瓦粟田口より来るなり」『舜旧記』 | 古田織部、小堀遠州に茶の湯を教え始める | 江戸幕府始まる(1603) | |
1605 慶長 十 | 六月十五日条 「宗凡御会………肩衝京ヤキ」 『宗湛日記』 九月二六日条 「黒茶碗 京ヤキ也 ヒツム也」『宗湛日記』 | 八月二七日条「藤四郎塞手常如院茶入」『松屋会記』 | ||
1606 慶長十一 | 十月五日条 「黒茶碗 京ヤキ」『宗湛日記』 宮川長閑斎、智恩院内に築窯 | |||
1607 慶長十二 | 千道安没六二才 | |||
1608 慶長十三 | 五代雲林院(寶山)安平没 | 千宗旦、松屋久重を招いて茶会を催す | ||
1610 慶長十五 | 初代安田源左衛門尉宗光 (鍵屋)没 | 小堀遠州、春屋宗園より大有宗甫の堂號を授く 古田織部、徳川将軍家の茶道指南となる | ||
1612 慶長十七 | 小堀遠州、江月宗玩を開山として大徳寺に孤篷庵を創建 | |||
1614 慶長十九 | 金森宗和、父可重より勘当され、京都に移住。薙髪し、宗和と号す 千少庵没六九才 | 大阪冬の陣 | ||
1615 元和 元 | 古田織部切腹没 | 大阪夏の陣 武家諸法度・禁中並公家諸法度制定 | ||
1616 元和 二 | 徳川家康没(七五才) | |||
1617 元和 三 | 「粟田口瓦師」が崇伝の使として江戸へ下向 | 狩野探幽、御用絵師となる | 後陽成上皇没(四七才) | |
1618 元和 四 | 織田有楽、建仁寺正伝院に如庵を構える 金森宗和、御所八幡上半町に居住 | |||
1620 元和 六 | 東福門院入内する | |||
1621 元和 七 | 『梅津政景日記』九月八日条に秋田佐竹家の家臣梅津政景が京都で 「京やきのひらさら七つ五いろ」「京やきのつぼさら七つ三いろ」 購入の記事 | 織田有楽、京都東山に没 | ||
1622 元和 八 | 裏千家四代仙叟宗室、千宗旦の四男として生まれる 初代中川紹益没 | |||
1623 元和 九 | 二代安田源之烝宗政(鍵屋)没 | 清閑寺焼おこる 光悦、鷹ケ峰にて作陶 三代西村宗全没 | 小堀遠州、伏見奉行を拝命する | 徳川家光、将軍に就任 |
1624 寛永 一 | 「山城国愛宕郡粟田口三条通蹴揚今道町え、寛永元年の頃、尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師、三文字屋九右衛門と申者、粟田之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候よし……」 『青蓮院旧記』 | 押小路焼おこる | 小堀遠州、二条城・御幸御殿を作事する | |
1626 寛永 三 | 家光上洛 | |||
1627 寛永 四 | 小堀遠州、仙洞・女院御所を作事する 初代藪内剣仲紹智没 | |||
1629 寛永 六 | 後水尾天皇譲位 | |||
1633 寛永 十 | 千宗旦、近衛応山を迎えて茶会を催す | |||
1635 寛永十二 | 金閣寺住職鳳林承章『隔蓂記』を書き始める。 寛文八年まで三十四年間に及ぶ。 六代雲林院(寶山)熊之助没 | 常慶没 | 武家諸法度改定 参勤交代制確立 | |
1636 寛永十三 | 小堀遠州、品川御殿にて徳川家光に茶を献じ、清拙正澄の墨跡(「平心」)を拝領する | |||
1637 寛永十四 | 本阿弥光悦没 | 小堀遠州、伏見屋敷の茶室転合庵にて清拙正澄の墨跡(「平心」)披露茶会を催す | 島原の乱 | |
1638 寛永十五 | 五月六日 「榎之破木壱荷・灰壱俵、今日、自吉権、遣于作兵衛所也」 五月二十日 「自大平五兵衛、茶入五ツ來。粟田口作兵衛焼之茶入、自此方、切形遣之茶入也。内々参ケ之約束、依然、弐ツ返于五兵衛也。参ツ留置也『隔蓂記』 「粟田口キセル土物」 「黒谷茶入合土漢ノ土ニ似ト云」 『毛吹草』 | 金森宗和、松屋久重らを招いて茶会を催す | ||
1639 寛永十六 | 松花堂昭乗没 | 鎖国スタート | ||
1640 寛永十七 | 三月十三日 「大平五兵衛 與作兵衛同道而来 作兵衛者於粟田口而焼茶 入者也 内海之茶入壹壼惠予也」 四月 六日 「大平五兵衛来 則茶入作之清兵衛初同道 茶入共 香炉香合掛車而作也 令見物之也 掛薬香合三ケ持参 而今焼而令見之也 五兵衛清兵衛 予吉権同伴 而到山辺 焼物窯之場見合也清兵衛為持参 今焼青薬之茶入鉢壹ケ惠之也」 六月二十日 「自大平五兵衛所 粟田口作兵衛焼之花入五ケ来也 自此方茶入切形遣之茶入也」 七月 八日 「今度作兵衛焼茶入両ケ文淋・肩衝 祗園茶入之蓋亦引也」 十一月八日 「粟田口焼之肩衝茶入予所持 為欲見于大平五兵衛今日持参…金森宗和 被切形 而於粟田口而作兵衛焼之茶入也」『隔蓂記』 | 千利休五十回忌 | ||
1641 寛永十八 | 一月 五日 「大平五兵衛禮来 粟田口太左衛門作之高麗五器以之茶碗惠之 桐之家入也 見事之茶碗驚目者也」 五月二十日 「自大平五兵衛 茶入五ツ来 粟田口作兵衛焼之茶入 自此方 切形遣之茶入也」 『隔蓂記』 | 江戸幕府の経済的支援をうけて仁和寺伽藍の再興始まる | 寛永の大飢饉(~二十年) | |
三代安田喜十郎宗清(鍵屋)没 | ||||
1642 寛永十九 | 表千家四代江岑宗左、紀州徳川家に仕官 | |||
1643 寛永二十 | 三月十五日 「於書院而出茶之湯也 二重筒之花入 玉津嶋茶入 作兵衛五器手茶碗也」 三月二七日 「御茶入者新壺両ケ雖有之 袋入壺ケ捧之也 粟田口作兵衛焼之飴薬之唐之似物の丸壺也」 十月二二日 「大平五兵衛持参 而作兵衛作之茶入共見之」 『隔蓂記』 | 十月二十日 「清水焼之水建(建水)」を 大平五兵衛が鳳林に届ける『隔蓂記」 | ||
このころ、瀬戸の瓶子窯では遠州好みの優れた瀬戸茶入が焼かれていた | ||||
1644 正保 元 | 千宗旦、四畳半座敷「又隠」を建てる | |||
1645 正保 二 | 七代雲林院(寶山)文蔵粟田分木町に築窯 『陶磁器業者ニ関スル取調書』 一月四日 「柳馬場三条上町」で火事。鳳林、大平五兵衛の許へ見舞を遣わす『隔蓂記』 二月二五日 「大平五兵衛来過、為年玉作兵衛焼之茶入被恵之……似唐物之飛騨帯茶入」 『隔蓂記』 | 細川三斎没八三才 | ||
1646 正保 三 | 酒井田柿右衛門、赤絵付に成功 十月 仁和寺伽藍の落慶法要営まれ、門跡覚深法親王、新殿に移る『仁和寺御移徒記』 | |||
1647 正保 四 | この頃野々村仁清御室に開窯か | 小堀遠州没(六九才) | ||
1648 正保 五 | 『隔蓂記』に「御室焼」初見 正月9日 条 「賀茂之関目民部来 御室焼之茶入壱ヶ恵之」 『隔蓂記』 閏正月二一日 仁和寺二一世覚深法親王逝去(六一才) | 千宗旦、江岑宗左に家屋敷を譲り隠居 また、一畳半座敷「今日庵」を建てる | ||
1648 慶安 元 | 三月二五日条 金森宗和、「宗和切り形トテ、トウ(胴)四方也(中略)仁和寺ヤキト也」の茶弁当に入れるために作らせた茶入を自会に使用する。この日、宗和は「アラヤキ水指」の前に「宗和切形トテ トウ四方也 シマノ袋」の茶入を置き、久重にこれを「仁和寺ヤキト也」と語る 『松屋会記』 八月 金森宗和、前田利常の小松城内葭島書院路地造営の完成茶会に招かれ加賀を訪れる 『新山田畔書』『三壺聞書』『菅家見聞集』 | 千宗旦、鳳林承章を今日庵に招いて茶会を催す 金森宗和、松屋久重らを招き、宗和切形茶入を使って茶会を催す | ||
1649 慶安 二 | 十一月二三日 「午時於金地院 宸翰広目之振舞有之…仙洞御製之宸翰被掛也茶碗・水指者新敷粟田口焼き也」 『隔蓂記』 | 『隔蓂記』に御室焼陶工「清右衛門」初見 八月二四日 「焼物師清右衛門焼物之形作、面々種々相好也。予又作好、 而水指・皿・茶碗等令作之也。偏易相伴也」『隔蓂記』 この日、鳳林は豪商宇陀十右衛門の鳴滝別邸の振舞いに招かれて後、 南禅寺金地院最岳元良、竜安寺僧偏易と共に仁和寺造営奉行木下利当 のもとを訪れている 十二月 鳳林、大和布施の領主桑山一玄の茶会で、「水指御室焼」拝見 十二月十二日 大和布施の領主で京都三十三間堂の修理奉行を勤めた桑山一玄、「水指御室焼」を茶湯に使用 『隔蓂記』 | 慶安の御触書 | |
1650 慶安 三 | 一月 一日 「自大平五兵衛 粟田口茶碗壹ケ惠之也 高麗五器手相似也」 一月二五日 「點濃茗 即今之茶碗 〔粟田口焼之茶碗〕遣臼井喜兵衛也 当年大平五兵衛年玉惠之茶碗也」 二月 六日 「大平五兵衛茶振舞也粟田口之理兵衛亦來 初逢也 為似唐物 瓢箪茶入理兵衛惠之也」 『隔蓂記』 | 三月五日 条「鳳林承章、木下利當方で入手の「仁和寺焼之茶入」に茶を詰めて前田八左衛門に贈る『隔蓂記』 五月二五日 条「水指御室焼ねちぬき」 『宗和茶湯書』 八月十二日 鳳林承章、小川坊城俊完を尋ねるが御室焼見物のため不在 『隔蓂記』 十月十五日 金森宗和、加賀滞在。小松城の前田利常より銀子五十枚を拝領し、その旨を利常付の半田六郎左衛門に報告する『半田六郎左衛門宛宗和書状』 十月十九日 条「丹波焼清右衛門来」『御室御記』 十月二五日 鳳林承章、「御室焼之茶碗二ケ」桑山一玄より給う 『隔蓂記』 閏十月二十日 千宗旦、宗室への文に「小(御)室やき此一両日二やきたて候」と伝える『元伯宗旦文書』 十一月三日 鳳林承章、桑山一玄より御室窯に申し付けた「茶入」(宗和の蓋・袋)を仙洞御所献上 『隔蓂記』 | 千宗旦、東福門院より「縫の歌仙絵」を拝領する | |
1651 慶安 四 | 正月 金森宗和、前田家に御室焼水指送る『前田家表御納戸御道具目録帳』 三月十六日 「茶碗御室月二梅の絵」『宗和茶湯書』 六月 金森宗和、前田家に御室焼水指送る『前田家表御納戸御道具目録帳』 | |||
1652 慶安 五 | 七月十九日 条「茶碗御室きこく」『宗和茶湯書』 | |||
1652 承応 元 | 十月十一日 条「茶碗御室赤絵薄入絵丸五ツ」『宗和茶湯書』 | 千宗旦の長男、閑翁宗拙没 千仙叟宗室加賀前田家に仕官 | ||
千江岑宗左、徳川幕府の要請により「千利休由緒書」を提出 初代黒田正玄没 | ||||
1653 承応 二 | 四代西村宗雲没 正月三日 条 鳳林承章、袖岡宇右衛門より「御室○(焼)茶碗両丁」贈られる『隔蓂記』 正月十三日 条 「おむろやきあみかさ」『宗和茶湯書』 二月十四日 条 「茶碗おむろこうらい」『宗和茶湯書』 閏六月七日 条 金森宗和、幕府の大番頭の堀利長に「御室焼物御用よし、茶入・茶碗いくつほと御用候」と、御室焼斡旋『堀俊長宛宗和書状』 十月二六日 条 鳳林承章、金森宗和に「御室焼之茶入壹ケ」返却『隔蓂記』 十一月十二日 条 鳳林承章、勧修寺経広より「御室焼之茶碗壹ケ」贈られる『隔蓂記』 十二月八日 条 「御室水指せいの高き但青薬」『宗和茶湯書』 | |||
1654 承応 三 | 正月一日 条 鳳林承章、大平五平衛より「御室○(焼)茶碗壹ケ」贈られる『隔蓂記』 | |||
1655 承応 四 | 三月二七日 条 「御室丸香合さき(鷺)『宗和茶湯書』 金森宗和、天寧寺に銹絵水仙文茶碗等を寄進 | |||
1655 明暦 元 | 五月二四日 「金地院於粟田口 焼物之香合御申付 被投主膳殿之次 予亦壹丁給之也」 六月 三日 「於金地院 而粟田口焼之香物鉢壹丁給之也」 『隔蓂記』 | 六月二三日 京都所司代牧野親成、将軍徳川家綱に拝謁し、「御室窯香炉・茗碗」を献上する『徳川実紀』 八月一日 条 鳳林承章、袖岡宇右衛門より「御室焼之茶碗壹ケ」贈られる『隔蓂記』 九月六日 条 「御室花入四角」『宗和茶湯書』 九月二六日条「晴巳刻、九条太閤・二条関白御成、御対面所御雑煮出、御盃有之、御門跡御相伴、堀川宰相務同、御前出御座敷通、於庭上壺屋清右衛門焼き物形仕懸御目」『御室御記』 十一月十六日 「御室小袖香合」『宗和茶湯書』 | 二代藪内真翁紹智没 山田宗偏三河小笠原家の茶堂となる(偏は正しくはぎょうにんべん) | |
1656 明暦 二 | 三代楽道入没五八才 「奉寄進 野々村播磨□(大) 明暦弐年」刻銘出土陶片 二月二十日 条 鳳林承章、仁和寺門主性承法親王より「御室焼之水指・花入・茶碗を拝領する『隔蓂記』 四月十一日 条 鳳林承章、河路又兵衛より「御室茶碗入箱」贈られる『隔蓂記』 七月二一日 牧野親成、「御室窯茶碗」を将軍徳川家綱に献上『徳川実紀』 八月一日 条 鳳林承章、袖岡右宇衛門より「御室焼之茶碗壹ケ」贈られる『隔蓂記』 九月二六日 「御室飯櫃水指」『宗和茶湯書』 | 十二月十五日金森 宗和没七三才 十二月十八日条「金森宗和老去十五日逝去之由」『隔記』 | ||
1657 明暦 三 | 仁清作「色絵輪宝羯麿文香炉」(藤田美術館蔵)裏面に「奉寄進 播磨入道仁清作明暦三年卯月」の刻印有り。これは仁清の年代の明らかな作品の初見 この頃、仁清、色絵を完成 茶碗屋久兵衛、清水焼を始める 六月十四日 条 鳳林承章、「御室焼薄茶々椀(碗)」を西川瀬兵衛に贈る『隔蓂記』 十一月二六日 条 鳳林承章、一條昭良より「御室焼之茶碗壹ケ」拝領『隔蓂記』 | 初代飛来一閑没 | 明暦の大火 | |
1658 明暦 四 | 正月九日 条 鳳林承章、河路又兵衛より「御室焼茶碗壹ケ」贈られる『隔蓂記』 二月二六日 京極高和、播州館野から讃岐丸亀に移封される 尾形光琳誕生。幼名市丞 | |||
1658 萬治 元 | 十月十二日 前田利常没六六才 十一月二五日 条 鳳林承章、「御室○(焼)茶碗壹ケ」を善応院光岳中伝に贈る『隔蓂記』 | 千宗旦没八一才 | ||
1659 萬治 二 | 二月二五日 「萬治二年二月廿五日 野々村播磨大掾藤原正廣入道仁清」銘「色絵三具足」を北野天満宮に奉納したという 四月十日 鳳林承章、「御室焼之茶碗大小両ケ」北野能通に贈る『隔蓂記』 十月五日 牧野親成、「御室茶碗五」将軍徳川家綱に献上『徳川実紀』 十二月二八日 鳳林承章「御室○ (焼)茶椀(碗)壹ケ」林光院三明瑞宥に贈る『隔蓂記』 | |||
1660 萬治 三 | 一月 二日 「袖岡宇右衛門為禮 來 粟田口焼天目壹ケ惠之 相對 浮盃也」 四月十七日 「粟田口焼之高麗茶碗之似物イラ坊之手之茶碗壹ケ自霊叟翁 被恵与也焼体見事也」 五月 四日 「自安養寺長老 有使僧而イラハウ手粟田口焼茶碗壹ケ竝笠井海苔一袋被惠之也」 『隔蓂記』 | 三月十一日 鳳林承章、後水尾法皇御室御幸に同道、「任(仁)清焼物共」取り寄せて叡覧に供する『隔蓂記』 十月十九日 鳳林承章、安養寺龍空より「錦手赤絵□(御)室任世(仁清)作之茶椀(碗)箱入」贈られる『隔蓂記』 この頃、京極家、『萬御数寄道具御印帳』に「御室焼銀ふくりんの天目三ツ」記帳 | ||
七代雲林院(寶山)文蔵没 | ||||
1661 寛文 元 | 寛文年間、錦窯始まる 『粟田陶器沿革』 | 七月十八日 鳳林承章、清子内親王より「任(仁)清焼之薬鍋」拝領『隔蓂記』 九月 前田綱利、加賀に初入部、重臣の茶会に御室焼使用『綱利公江献御茶道具付併献立』 十二月二九日 木下利當没五九才 | 片桐石州、わびの文を書く | |
1662 寛文 二 | 九月一日 仁和寺門主性承法親王、「御室茶具五品」を将軍徳川家綱に献上『徳川実紀 九月八日 御側役松平氏信、「御室香炉」を上洛の土産として将軍徳川家綱に献上『徳川実紀 九月十三日 京極高和没四四才 | |||
1663 寛文 三 | 東福門院和子の御用を勤めた京都の呉服商雁金屋尾形宗謙(四三才)の三男として尾形乾山誕生。名は権平。惟允、紫翠、深省、傳陸、習静堂などと称した。 正月十二日 鳳林承章、鈴鹿能登より「御室焼茶椀(碗)壹ケ」贈られる『隔蓂記』 七月十六日 御側役森川重名「御室茶碗」を上洛の土産として将軍徳川家綱に献上『徳川実紀 七月二八日 鳳林承章、「錦手之任(仁)清焼之茶椀(碗)壹ツ(中略)自安養寺来茶椀(碗)」由良外記に贈る『隔蓂記』 八月一日 鳳林承章、袖岡宇右衛門より「任(仁)清焼之大茶椀(碗)」贈られる『隔蓂記』 | 『江岑夏書』完成 初代大西浄林没 | 武家諸法度改定 | |
1664 寛文 四 | 後水尾上皇の修学院離宮での御庭焼『修学院焼』開窯。粟田口の陶工が製陶に携わった。延宝年間頃まで焼かれた。 | 正月三日 鳳林承章、袖岡宇右衛門より「御室任世(仁清)作之茶椀(碗)」贈られる『隔蓂記』 八月一日 鳳林承章、袖岡宇右衛門より「御室焼茶椀(碗)壹ケ」贈られる『隔蓂記』 十二月二一日 牧野親成、「御室茶入」を将軍徳川家綱に献上『徳川実紀 | ||
1665 寛文 五 | 一月 七日 「粟田口作兵衛事申談 作兵衛作之文淋尻太茶入令見之也」 八月二七日 「茶入粟田口焼 蓋・袋・家共 可被惠之由也」 『隔蓂記』 | 大樋焼始まる 正月六日 鳳林承章、袖岡宇右衛門より「御室大茶椀(碗)壹ケ」贈られる『隔蓂記』 二月十八日 鳳林承章、「御室焼之有耳水指[無蓋、赤色也]」を北野能通に贈る『隔蓂記』 | ||
1666 寛文 六 | 正月二六日 鳳林承章、仁和寺内若林采女より「菓子焼物鉢両ケ」「任(仁)清焼也 見事之鉢也」を贈られる『隔蓂記』 | 武者小路千家初代一翁宗守高松松平家に仕官 | ||
1667 寛文 七 | 一月二二日 「作兵衛焼之茶入令為見也」 『隔蓂記』 | 閏二月十一日 鳳林承章、「御室之仁清子安右衛門」に初めて会う『隔蓂記』 | ||
1668 寛文 八 | 八月 『隔蓂記』の著者、鳳林承章没 七十七才 | |||
1671 寛文十一 | 四代安田源七郎宗因(鍵屋)没 | 徳川頼宣没 | ||
1672 寛文十二 | 「粟田口焼ニモ贋物多シ諸事不都合ニテイヨイヨヨロシカラヌ焼物ナリ」 『茶器弁玉集』 | 表千家四代千江岑宗左没六十才 | ||
1673 延宝 元 | 片桐石州没 | |||
1674 延宝 二 | 十二月二九日 「請人 仁清、借主 清右衛門、 名代 清次郎判」の金子借用証文 | 三代藪内剣翁紹智没 | 狩野探幽没 | |
1675 延宝 三 | 武者小路千家初代一翁宗守没(八三才) 高遊外売茶翁、肥前佐賀蓮池に生まれる。姓は柴山、名は菊泉。 | |||
1677 延宝 五 | 高橋藤九郎(初代帯山)粟田口東町に移り住む | 二月十二日 「野々村仁清判、同清右衛門判」の金子借用証文 | ||
1678 延宝 六 | 土佐国尾戸焼の陶工、森田久右衛門、京焼見学。 八月二五日 「あわた口焼見物仕釜所迄 見物仕ル釜之様子火たき申所ハ 火口前ニあなありちゃわん壱つ買参申候 しからきやきはせ出申様は あわた口やき手申様ハ くろ谷土すいひ仕すな入申候ヘハ如此はせ出申由」 『森田久右衛門日記』 | 二月二九日 仁和寺二二世性承法親王没(四一才) 八月二十日 森田久右衛門、御室焼を尋ねる「釜(窯)も七ツ有、唯今之焼野々村清右衛門と申す也(中略)掛花入ニしゃくはち(尺八)有、かうろ(香炉)ニえひ(海老)有、おし鳥(鴛鴦)・きし(雉)なと有」『森田久右衛門日記』 十二月二日 森田久右衛門、江戸町中にて御室焼の「茶入壱つ」「水指壱つ」購入。『森田久右衛門日記』 | 六月十五日、 後水尾法皇の中宮、東福門院和子没(七二才) | |
1680 延宝 八 | 高橋藤九郎(初代帯山)粟田に築窯 | 「近世此門前に陶窯アリ、仁清ト号ス、諸品の土器ヲ製ス、今の茶人の玩所御室焼ノ茶入茶碗是也」『嵯峨行程』 | 五月八日将軍徳川家綱没(四十才) 八月後水尾法皇没(八五才) | |
1681 延宝 九 | 七月一日 「仁和寺水指」常修院宮(慈胤法親王・梶井宮)茶会使用『三菩提院宮日次記』 七月三日 「仁和寺焼にしき手楊子サシノ香箱」後西院上皇茶会使用『三菩提院宮日次記』 七月二八日 仁和寺門主、「御室茶碗・花瓶・硯屏」将軍徳川綱吉に贈る『徳川実紀』 | |||
1681 天和 元 | 「修学院焼香合、 粟田口水指」 『一乗主人日次記』 | 護国寺建立 | ||
1682 天和 二 | 「近世仁和寺門前仁清之所製造是称御室焼、始令狩野探幽并永真等画其土上、依其画様而焼者多矣」(巻七 土産門下)『雍州府誌』 | 江戸大火 | ||
1683 天和 三 | 八代雲林院(寶山)九左衛門没 | 二月十九日 「御室焼エヒラ花入」常修院宮茶会使用『三菩提院宮日次記』 二月二十日 「油桶御茶入御室焼」後西院茶会使用。「御室焼之名物形御茶入四十余品」を御西院にて拝見。『三菩提院宮日次記』 | ||
1684 貞享 元 | 「野上茶碗 粟田口焼香合 音羽焼皿」 『一乗主人日次記』 | 二月一日 桑山一玄没(七四才) 四月二十日 「御室焼・・・花入一本・香合弐」後西院茶会使用『三菩提院宮日次記』 五月 尾形乾山の父宗謙が、光琳に遺言状を書く。諸道具・反物・金銀は乾山と折半するよう命じる『小西家文書』 五月二日、「香合ハ仁清焼なたまめ」「仁清水指ゆがみ口」近衛基熙茶会使用『三菩提院宮日次記』 五月二一日 「清水寺別当真敬法親王(三菩提院宮)、「御室焼へうたん御茶入二」後西院より拝領『三菩提院宮日次記』 | ||
1685 貞享 二 | 二月二二日 後西院上皇逝去(四九才) 三月二五日 真敬法親王、「御室焼茶入三」常修院宮より拝領『三菩提院宮日次記』 七月四日 「宗和好御室焼瓢茶入」真敬法親王自会使用『三菩提院宮日次記』 | |||
1686 貞享 三 | 五代安田武右衛門宗定(鍵屋)没 | 六月二日 真敬法親王、品宮邸で「仁和寺焼物師」の陶技を見る『三菩提院宮日次記』 六月十七日 「宗和好ノ長茶入御室焼」出納豊後守茶会使用『三菩提院宮日次記』 六月十八日 「御室焼水指 同焼四角茶入」常修院宮茶会使用『三菩提院宮日次記』 六月二一日 「御室焼茶入」常修院宮茶会使用『三菩提院宮日次記』 八月二四日 「御水指御室焼」常修院宮茶会使用『三菩提院宮日次記』 | 高遊外売茶翁、佐賀にある黄檗の末寺、竜津寺の化りん(「りん」は雨かんむりに林)のもとで修行 | |
1687 貞享 四 | 一月 乾山の父宗謙、再び遺言状を書き、貞享 元年の内容を確認する『小西家文書』 六月 尾形乾山の父宗謙没(六七才)『小西家文書』 八月 乾山、遺言通り、室町花立町、本浄華院町、鷹峯の家屋敷三ヶ所、月江正印墨跡、書籍一式、金銀諸道具の半分を受ける『小西家文書』 八月十七日以後翌年六月二七日の間に乾山、名を権平から深省に改める『小西家文書』 | 生類あわれみみの令(~1709) | ||
1688 貞享 五 | 正月二七日 「御室焼水指、御室焼茶入耳付」常修院宮茶会使用『三菩提院宮日次記』 閏正月八日 真敬法親王「仁和寺焼之花入一ツ」陽徳院宮へ贈る『三菩提院宮日次記』 |
江戸中期
西暦 和暦 | 粟田焼関係事項 | 他の焼物に関係する事項 | 茶道関係事項 | 一般事項 |
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1689 元禄 二 | 六代安田源太郎(鍵屋)、粟田口中之町に築窯。 後に桑原三位□□卿より錦光山の号を賜り、七代よりその号を用いる。 | 尾形乾山、御室に習静堂を建て移り住む 三月 乾山仁和寺門跡寛隆法親王に初めて御目見許される『御室御記』 七月 乾山、兄光琳と二條綱平邸へ挨拶に行く『二條家内々御番所日次記』 | ||
1690 元禄 三 | 九月 乾山、独照性円とその弟子道澄月潭を習静堂に招く。独照より霊海号を授かる『直指独照禅師後録』『峩山稿』 | この頃立花立山『南方録』編纂 裏千家四代仙叟宗室、今日庵に祖堂をつくり、利休百回忌を催す 山田宗偏、『茶道便豪抄』を刊行 | ||
1691 元禄 四 | 鴻池道億『鴻池家道具帳』編纂 遠藤元閑、利休・織部・遠州の茶を記した『茶之湯三伝集』著述 表千家五代随流斎宗佐没四二才 | |||
1692 元禄 五 | この頃、京極家『萬御数寄道具御印帳』に「御室焼御茶壺壱ケ」の記載あり 四月、乾山、石川丈山を訪ね『過凹凸果記』(果は正しくは穴かんむりに果)を堂主三宅安宅に贈る『過凹凸果記』 九月、独照性円、習静堂を再び訪ねる『直指独照禅師後録』 この年乾山、二條綱平邸へ一回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | |||
1693 元禄 六 | 初代小林徳右衛門(鍵屋・錦光山)誕生 | 五月 二條綱平、二尊院墓参の帰りに習静堂を訪ねるく『二條家内々御番所日次記』 十月 二條綱平、習静堂を再訪『二條家内々御番所日次記』 この年乾山、二條綱平邸へ十六回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | 『茶道全書』が刊行される 二代駒沢宗慶没 | |
1694 元禄 七 | 「一、粟田口焼△茶入△茶碗其外品々有茶入は土薬なり、かっこう唐物ひたち帯によく似たる物也」 『古今和漢諸道具見知鈔』 | 五月十八日 京極高豊没(四十才) 八月、乾山、福王子村鳴滝泉谷の二條家山屋敷を拝領する『鳴滝山屋敷拝領文書』 この年乾山、二條綱平邸へ六回伺候する『二條家内々御番所日次記』 直指庵独照性円没(七八才) この頃初代仁清没か? | 近世の美術全書『万宝全書』(全十三巻)刊行され始める | |
1695 元禄 八 | 八月二十六日 「一、御室焼御香合十三京都より到来、以新蔵上之候へハ、事之外不出来御用ニ立かたく候間、何とそ為焼直可申旨被仰出ニ付、千宗室方よりも仁清二代ニ罷成下手ニ御座候旨申来候、とかく何方ニも能焼候もの承合申付候様ニ可仕旨御請申上候へハ、兎角御用ニ不相立候間、可相返旨被仰出ニ付、右之通宗室方へも申遣、可相返旨表納戸奉行へ申渡候、委細右奉行申、手前留書ニ有之旨也」『前田貞親覚書』 十月二三日、加賀藩の香合、御室焼から伊万里焼に変更『前田貞親覚書』 この年乾山、二條綱平邸へ三回伺候する『二條家内々御番所日次記』 この頃、京極家『高或御印帳』に御室焼の一括記載あり | 初代中村杯斎宗哲没 | ||
1696 元禄 九 | 八月 九左衛門、 江州南桜村の山を給せられ同山の土を以て陶器を造る 『京都御役所向大概覚書』 | 三月十日 「野々村清八自今以後貳人扶持可被下旨被出也」『御室御記』 三月 乾山、光琳に借金返済の督促と財産管理の勧告を認める『小西家文書』 四代樂一入没(五七才) この年乾山、二條綱平邸へ五回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | ||
1697 元禄 十 | 一、 粟田口焼物師……九左衛門 一、 清水焼師……清兵衛、 一、御室焼物師……野々村仁清 『茶湯評林大成』 | 五代西村宗筌没 「一、楽焼、茶碗のことく土あらく、薬黒きも赤きも有、又黒と赤きと飛入のいりたるも有事也、利休時代の古きハ高値なる物也」『茶湯評林』巻六「追加茶入之習」遠藤元閑編 十二月 乾山、兄光琳と共に妙顕 寺から借りた銀二貫目の利子を払う『小西家文書』 この年乾山、二條綱平邸へ五回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | 裏千家四代仙叟宗室没七六才 | |
1698 元禄十一 | 八月八日 「野々村清右衛門依御用自今朝来及深更帰宅」 『御室御記』 九月七日、「焼物師清右衛門松木十本拝領申渡」 『御室御記』 この年乾山、二條綱平邸へ七回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | 江戸大火 | ||
1699 元禄十二 | 二月二九日 「御門前清右衛門近内焼物仕候由御届来」 『御室御記』 尾形深省、鳴滝に乾山窯開窯 三月八日 「御門前緒方深省御領内泉谷辺之屋敷ニ而瀬戸焼釜本仕売得仕度旨福王子村庄屋ヲ以代官中迄願書上ル」『御室御記』 七月朔日 「緒方深省来、内々奉願候薪拝領之旨、治部卿被申渡、難有奉存候旨也」 『御室御記』 八月十三日 仁清、「仁清伝書」に署名し、陶法を乾山に譲る 『陶工必要』 十一月二十日 「緒方深省手作茶碗始而献上之、号乾山焼云」 『御室御記』 十二月二日、常修院宮(慈胤法親王・梶井宮)逝去(八三才) 十二月七日、「鳴滝村深省近日焼物仕由御届申」 『御室御記』 この年乾山、二條綱平邸へ三回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | 藤村庸軒没 常修院宮没 | ||
1700 元禄十三 | 三月十一日 「森河内守ヨリ 御長命草盆(小道具モ蒔絵有之)在京殿進上之 尾形光琳ヨリ 御長命草入(十五自画) 同深省より 御香炉 自焼」 『二條家内々御番所日次記』 この年乾山、二條綱平邸へ三回伺候する 『二條家内々御番所日次記』 | 奥村家初代吉右衛門没 | 徳川光圀没 | |
光琳、法橋に叙任される『小西家文書』 この年乾山、二條綱平邸へ二回伺候する 『二條家内々御番所日次記』 | 久須美疎安編の藤村庸軒の聞書、『茶話指月集』刊行 | |||
1702 元禄十五 | この年乾山、二條綱平邸へ四回伺候する 『二條家内々御番所日次記』 | 赤穂浪士、討ち入り | ||
1704 宝永 元 | 「宝永ノ頃ヨリ白色緑藍色柿色墨色等ノ画アリ 又焼締ノ器アリ薬ナシ」 『粟田陶器沿革』 | 裏千家五代常叟宗室没三二才 | ||
1706 宝永 三 | 七月六日 真敬法親王(三菩提院宮)逝去(五八才) | 杉本普斎没七九才 二代中村汲斎宗哲没 | ||
1707 宝永 四 | 富士山噴火 | |||
1708 宝永 五 | 八月九日 加賀藩老臣本多政長没(七八才) | 武者小路千家二代文叔宗守没五一才 山田宗偏没八二才 | ||
1709 宝永 六 | 徳川綱吉没 | |||
1711 正徳 | 正徳年間、一文字屋(暁山)粟田に開窯 | |||
1712 正徳 二 | 六代安田源太郎(鍵屋)没 | 乾山、鳴滝窯廃窯 | 藪内流四代剣渓紹智没 | 徳川家宣没 |
1713 正徳 三 | 十二月 粟田口焼の陶工が登窯を築く為借金する 『雲林院寶山文書』 | |||
1714 正徳 四 | 「正徳四年~享保三年に粟田口焼本窯并素焼窯所持十三軒、素焼窯所持七軒」 『京都御役所向大概覚書』 | 久須美疎安編纂による庸軒の茶話集『茶話指月集刊行 | ||
1716 享保 一 | 五代楽宗入没(五三才) 尾形光琳没 享保年間、海老屋清兵衛作陶する | 徳川家継没 享保の改革 | ||
1718 享保 三 | 御蔭参り流行 | |||
1719 享保 四 | 相対済し令 | |||
1720 享保 五 | 江戸大火 江戸町火消しいろは組を設置 | |||
1721 享保 六 | 目安箱設置 | |||
1722 享保 七 | 小石川養病所設置 | |||
1723 享保 八 | 寶山湛海師、洛東粟田口に歓喜院を営み、九代雲林院安兵衛(茶碗屋)、師より『寶山』の号を贈られる。 以後代々この号を用いる 九代雲林院安兵衛(茶碗屋)没 | |||
1724 享保 九 | 六月二二日 京極高或没(三三才) | 『槐記』書き始められる。これは近衛家当主予楽院家熈(いえひろ)の述懐を侍医山科道安が記録したもの | ||
1726 享保十一 | 裏千家六代泰叟宗室没三三才 | |||
1727 享保十二 | 久須美疎安没 | |||
1730 享保十五 | 表千家六代覚々斎宗左没五三才 | |||
1732 享保十七 | 享保の大飢饉 | |||
1733 享保十八 | 七代安田源七宗信(鍵屋)没 | 裏千家七代竺叟宗室没二五才 | ||
1734 享保十九 | 一月二九日 「水指 仁清 塗蓋 茶碗 粟田口焼 黒』 (槐記) 高橋藤九郎(初代帯山)没 | |||
1736 元文 元 | 近衛予楽院家熙没七十才 | |||
1737 元文 二 | 尾形乾山、『陶工必用(江戸伝書)』『陶磁製法(佐野伝書)』著 | |||
1738 元文 三 | 尾形乾山、栃木県佐野にて『陶磁製方』を著す 初代清水六兵衛誕生 | 宇治の永谷宗円、従来の煎茶に改良を加え、青茶の煎茶をつくる | ||
1739 元文 四 | 六代楽左入没(五五才) | 表千家如心斎、千利休百五十回忌にあたり、利休堂を建立 | ||
1740 元文 五 | 千利休百五十回忌 | |||
1741 寛保 元 | 六代西村宗貞没 | 表千家如心斎、裏千家一燈、川上不白ら七事式を制定 | ||
1742 寛保 二 | 公事方御定書制定 | |||
1743 寛保 三 | 尾形乾山没(八一才) | |||
1744 延享 一 | 七代西村宗順没。この頃上京の古木町(現在の寺ノ内新町東入ル)へ移り住む | |||
1745 延享 二 | 正月十一日 「御境内御茶碗師九右衛門義近年身上甚以不勝手ニ相成……」 『本朝陶器攷證』 | 武者小路千家三代真伯宗守没五三才 藪内竹心の『源流茶話』『茶道霧の海』刊行 藪内流五代竹心紹智没 | ||
1748 寛延 一 | 和気亀亭、五条に築窯 | |||
1749 寛延 二 | 三月十七日 初代高橋道八(光重周平)〈松風亭空中〉、伊勢亀山に誕生 | |||
1751 宝暦 元 | 表千家七代如心斎宗左没四七才 | 徳川吉宗没 | ||
1752 宝暦 二 | 十代寶山安平歿 | |||
1753 宝暦 三 | 奥田頴川、京都に生れる | |||
1755 宝暦 五 | 御茶碗師九左衛門(三文字屋)、将軍家御用焼物師の地位を辞す 二月、九代将軍徳川家重、岩倉山吉兵衛・錦光山茂(喜)兵衛に陶器調進を命ずる 「桃園帝ノ宝暦五年二月、九代将軍家重公粟田ノ陶□□検査而岩倉山吉兵衛・錦光山喜兵衛ノ両人ニ調進セシム」 『陶器辧解』 「三代茂兵衛延享年中箕裘ヲ継ク、時ニ宝暦五年将軍徳川家重公ノ命ニヨリ飲料ノ茶碗ヲ試製シテ之ヲ進ム、爾来年々調製スルヲ例トス」 『陶磁器業者ニ関スル取調書』 八月十八日 錦光山茂兵衛没 錦光山茂兵衛ノ墓、超勝寺門前町超勝寺にあり、名は柳仙、粟田の陶工なり、宝暦五年八月十八日歿す、孫宗兵衛ノ墓傍にあり略す」 『坊目誌』 | 表千家七代如心斎宗左門下の川上不白、江戸に下り千家流茶道の普及につとめる | ||
1756 宝暦 六 | 鍵屋、号を錦光山と改める | |||
1758 宝暦 八 | 「東町 同断 鍵屋源助 右之者共当時いづれも窯持にて茶器の類其外土瓶茶碗急須行平其の外世用之品々焼立諸国へ売弘め申候」 この頃、粟田焼従事者二十戸という 二代帯山与兵衛歿(七一才) | |||
1759 宝暦 九 | 二代鍵屋茂兵衛(錦光山)没 錦光山茂兵衛之墓、超勝寺門前町超勝寺にあり、 名は柳仙、 粟田の陶工なり 宝暦五年八月十八日没す、孫宗兵衛ノ墓傍にあり略す」 『京都坊目誌』 | |||
1762 宝暦十二 | 「三条通今道町(中略)此辺粟田口焼とて陶器の名物有 南側に錦光山といふ御陶器師居宅有」 『京町鑑』 | |||
1763 宝暦十三 | この頃、初代高橋道八粟田口に築窯 | |||
1764 明和 | 「明和年中堆朱沈金唐草等ノ金銀彩色(又和欄陀写アリ)ノ法行レリ」 『粟田陶器沿革』 | |||
1765 明和 二 | 八代安田源七宗義(鍵屋)没 | 初代和気亀亭没 | 初代土田友湖没 | |
1767 明和 四 | 青木木米、京都祇園新地縄手町の茶屋「木屋」の長男として生れる | |||
1769 明和 六 | 十一代雲林院(寶山)文造没 | 八代西村宗円没 | ||
1770 明和 七 | 粟田口東町家屋敷三六軒のうち陶業に従事する者二一人、その所持する家屋敷の最高が三軒、その他百姓家五軒、青蓮院寺侍屋敷二軒 『粟田口東町割印沽巻改帳』 『雲林院寶山文書』 初代小林徳右衛門(錦光山)没(七八才) | 七代楽長入没(五七才) 十代善五郎(了全)誕生 | 松平不昧、『贅言』を著す | |
1771 明和 八 | 初代清水六兵衛、五条坂に築窯 | 一燈宗室『茶道浜真砂』著 裏千家八代一燈宗室没五十三才 | ||
1774 安永 三 | 八代樂得入没(三十才) | 杉田玄白『解体新書』著 | ||
1781 天明 | 「四世与兵衛ハ天明年間業ヲ継ク」 『陶磁器業者二関スル取調べ書』 | この頃、二代目近江屋平岡利兵衛、大和大路五条に陶器商を創業(後の萬珠堂) | ||
1782 天明 二 | 武者小路千家四代堅叟宗守没 | 天明の大飢饉(~87) | ||
1783 天明 三 | 三代帯山与兵衛没(六二才) 三月十二日 二代高橋道八(光時)〈松風亭・華中亭・法螺山人・仁阿弥道八〉、誕生 | |||
1786 天明 六 | 徳川家治没 | |||
1787 天明 七 | 寛政の改革始まる | |||
1788 天明 八 | この頃、奥田頴川、五条坂に築窯 | 天明の大火、千家類焼 | ||
西村了全、油小路一条へ転居 | ||||
1789 寛政 一 | 十二代寶山熊之助没 | 表千家卒(正しくはくちへんに卒)啄斎宗左・裏千家不見斎宗室、利休二百回忌茶会を開く 松平不昧『古今名物類聚』刊行始まる | ||
1790 寛政 二 | 四代帯山与兵衛、陶質瑠璃地青浮起模様堆朱沈金彫様諸器を製する | 二代清水六兵衛誕生(~1860) | ||
1793 寛政 五 | 錦光山宗兵衛、薩摩の星山中併衛、川原芳工に錦手の技を伝授する | |||
1794 寛政 六 | 上田秋成『清風瑣言』著 松平定信『茶事掟』著 | |||
1795 寛政 七 | 九代安田源七宗楽(鍵屋)没 | 松平定信『茶道訓』著 | ||
1796 寛政 八 | この頃、青木木米粟田口東町に開窯。一文字屋の名義を譲り受けたと言われる | |||
1799 寛政十一 | 粟田口焼窯元(登り窯を所有する陶家)数八軒。その他焼屋中を構成していた陶家は十四軒 粟田口焼の窯元・職方が仲間取締り、新窯禁止を申合せる 「近年仲間猥に相成、弟子・奉公人等取締り悪敷、殊更右体之御触も在之候事故、此度窯元申合左之名前之内より年寄一人相極メ、仲間一統之取締いたし候、然ル上ハ向後新窯築候儀相成申間敷候事 寛政十一年末之十一月岩倉山吉兵衛、寶山安兵衛、錦光山喜兵衛、暁山忠兵衛、錦光山嘉右衛門、寶山原兵衛、帯山與兵衛、洛東山治兵衛、右従窯元中・仲ケ間中之取メ之儀御定被下候段一統承知仕候、依之連判如件 帯屋吉左衛門、高島屋佐兵衛、白木屋与兵衛、一文字屋喜兵衛、鍵屋源七、美濃屋源太郎、一文字屋佐兵衛、丸屋吉兵衛、一文字屋藤三郎、錺屋源兵衛、帯屋久太郎、錺屋伝兵衛」「粟田口焼職方仲間『定』」 『雲林院寶山文書』 | 初代清水六兵衛没(六二才)。 文化八(1811)まで休窯となる | ||
1800 寛政十二 | 藪内家六代竹陰紹智没 | |||
1801 享和 一 | 享和年間 保全、粟田口の陶器師岩倉山某に陶法を倣う 「十一世善五郎、宇名保全、常ニ陶器ヲ心懸ケ、享和年ノ頃父ノ了全ト対談シ粟田口ノ陶器師岩倉山某ニ陶器ノ製造ヲ倣フ」 『陶磁器業者ニ関スル取調書』 | 裏千家九代石翁宗室没 | ||
1802 享和 二 | 「左兵衛作からものうつし上品にてあたえも又貴し」「左兵衛は唐物をうつすに妙を得たるものなり」 『煎茶早指南』 | |||
1803 享和 三 | 青木 木米、紀州にて製陶法を伝授する。 |
江戸後期
西暦 和暦 | 粟田焼関係事項 | 他の焼物に関係する事項 | 茶道関係事項 | 一般事項 |
---|---|---|---|---|
1804 文化 一 | 青木 木米、『陶説』を翻刻する 四月二六日 初代高橋道八(光重周平)〈松風亭空中〉没(五六才) | |||
1805 文化 二 | 青木木米、青蓮院宮粟田口御所御用焼物師を許される 「一、御境内東町陶工師茶碗屋木屋佐兵衛依頼、御立入并御用暖簾御免御礼御茶碗刷毛目、御香合蟹壱、扇子三本入一箱献上、御賄迄罷出ル」 『青蓮院日次記』 茶碗屋熊之助、帯屋与兵衛等青蓮院の出入を許される 「八月一四日、御境内茶碗屋仲ケ間御立入願の通被仰付、往年錦光山江御預被成下候御用懸札一枚更に仲ケ間江御預の儀願申、并御紋付高張一張拝借願出、御聞済御礼東町茶碗屋熊之助・帯山與兵衛・錺屋伝兵衛号岩倉山・鍵屋嘉右衛門・今道町一文字屋忠兵衛・鍵屋喜兵衛号錦光山・東分木町茶碗屋安兵衛等也、閏八月朔日右何れも御礼申上、御香合、御水指献上」 『華頂要略』 | |||
1806 文化 三 | 青木木米、金沢卯辰山、春日山に赴く(文化五年迄) | |||
二代高橋道八、青蓮院宮の御出入を許される | ||||
三代錦光山喜兵衛歿 | ||||
1807 文化 四 | 川上不白没 | |||
1808 文化 五 | 十代鍵屋源七宗久歿 | 表千家八代卒啄斎宗左没 | 間宮林蔵、樺太探検(~09) | |
1809 文化 六 | 水越與三兵衛、五条坂に築窯 | 速水宗達没 | ||
1810 文化 七 | 初代和気亀亭、肥前くに伊万里に赴く | |||
1811 文化 八 | 二代高橋道八、窯を粟田口夷町より清水坂大谷前西落町へ移す 「二世高橋道八ハ光時ハ父ノ業ヲ継グ、文化八年洛東粟田ヨリ五条坂ニ移リ和漢ノ古陶器ヲ摸シ」 (陶磁器業者ニ関スル取調書) 三代高橋道八(光英道三)〈華中亭・法橋道八〉誕生 | 奥田頴川歿 二代清水六兵衛、家業を再興する | ||
1812 文化 九 | 初代和気亀亭開窯 | |||
1817 文化十四 | 五代帯山与兵衛歿 | |||
1818 文化十八 | 十三代寶山安右衛門歿 | |||
1818 文政 一 | 五代帯山与兵衛歿 | 尾形周平、岡田久太を伴い北摂桜井里窯へ赴く | 松平不昧没 | |
1819 文政 二 | 十四代寶山熊之助隠居する (陶磁器業者ニ関スル取調書) | |||
1822 文政 五 | 青木木米、青蓮院の命により窯を築く 青木木米、青蓮院に参賀する 「一、御台所迄参賀献上物左之通 一染付瓢箪御根付壱 青木左兵衛 一、新宮様江献上物左之通 一染付瓢箪御根付壱 青木左兵衛 」 (青蓮院日次記) | 仁阿弥青蓮院に参賀する 「一、御台所迄参賀一黒楽御茶壱 道八 一、新宮様江献上物左之通 一亀香合壱 道八 (青蓮院日次記) | ||
1823 文政 六 | 洛東岡崎の土を五条坂陶家が買占め、粟田との間で抗争生じる 粟田今道町に鍵屋喜兵衛家、鍵屋源七家共同で築窯。窯場は喜兵衛家の土地、仕事場は源七の土地、費用は当時隆盛を極めていた一文字屋忠兵衛に連名で八三両借用 | |||
1824 文政 七 | 五条坂で粟田似に製品が焼かれ、抗争生じる | 二代高橋道八、西本願寺本如上人のために露山焼を開窯 | ||
1825 文政 八 | 二代道八、仁和寺宮から「仁」と「法橋」、醍醐三宝院からは「阿弥」の号を受ける | 異国船打払令 | ||
1826 文政 九 | 裏千家十代柏叟宗室没 | |||
1827 文政 十 | 仁阿弥道八、尾形周平、楽旦入、永楽保全、了全ら紀州徳川家の偕楽園焼に赴く 保全、藩主治宝より「河濱支流」の金印と「永楽」の銀印を下賜される | |||
1828 文政十一 | 十一代鍵屋源七歿 | 仁阿弥道八、薩摩の重久元阿弥に金焼付を指導する | ||
1829 文政十二 | 十二代鍵屋源七、家督を弟久次郎(後久楽)に譲り、近江国大津市鍋屋町の勢田屋七兵衛家を継ぐ | 松平定信没 | ||
1830 文政十三 | 欽古堂亀祐「陶器指南」発行 | |||
1830 天保 一 | 「天保年間ニ及フンテ人物画始メ製ス」 (粟田陶器沿革) | 初代松風嘉定、清水に開窯 | ||
1832 天保 三 | 四代錦光山喜兵衛歿。倅、市太郎(当時十二才)は岩倉山へ引取られ、幕府御用は岩倉山へ。 | 仁阿弥道八、讃窯を起す 頼山陽歿 | ||
岡田久太歿 | ||||
1833 天保 四 | 青木木米歿(六七才) 初代長谷川美山歿 | |||
1834 天保 五 | 初代清水蔵六、和気亀亭に学ぶ九代楽了入歿(七九才) | |||
1835 天保 六 | 青木木米校訂の「陶説」刊行される | 武者小路千家六代仁翁宗守没 | ||
1836 天保 七 | 五代錦光山喜兵衛(四代の弟)歿 | 初代和気亀亭歿(四七才) | ||
1837 天保 八 | 欽古堂亀祐歿(七三才) | |||
1838 天保 九 | 武者小路千家五代休翁宗守没 | |||
1839 天保 十 | 尾形周平歿 | |||
1840 天保十一 | 四代錦光山喜兵衛の子 歿(二十才) | |||
1841 天保十二 | 五条坂・清水・粟田口三所職方和順する 「先年ヨリ五条問屋方ニ而亀平と当所宝山・一喜殿等出会之節、何卒昔通職方一体ニ入魂致度旨毎度申出被居候処(中略)仲間一統相談之上承知致シ、同廿日安井前平野屋座敷ニ而五条職方一統出席、仲直り之盃いたし候、尤清水職方之義ハ先年ヨリ当所一体之義、此度右之趣相届ケ候処、大悦ニ而則三所之職方一統不残出会いたし和順ニ相成候事」(五条坂粟田焼出入一件録〔春窓庵所蔵文書〕) | 仁阿弥道八、家督を三代道八に譲り桃山窯を興す 十代西村善五郎(了全)歿 (七一才) 浅見五郎介、二代清水六兵衛の門に入る | 徳川家斉没 | |
1842 天保十三 | 二代長谷川美山、能楽人躰風雅を模写し絵付けする 十五代寶山熊之介(松平)歿 | 仁阿弥道八、隠居し桃山窯を起す | ||
1843 天保十四 | 岩倉山吉兵衛、粟田口東町に築窯 六代帯山与兵衛歿 | 仁阿弥道八、京都岡崎焼始める 初代真清水蔵六、五条坂に開窯 | ||
1844 弘化 | 弘化年間永楽保全、鷹司政通より陶印を賜う | |||
1845 弘化 二 | 二月二六日、四代高橋道八(光頼)〈華中亭道八〉誕生 九月一日、後の粟田の七宝作家、並河靖之、川越(埼玉県)藩士高岡九郎左衛門の三男として誕生(幼名留蔵) | |||
1846 弘化 三 | 藪内家七代竹翁紹智没 | |||
1847 弘化 四 | 稲垣休叟『茶道筌蹄』著 | |||
1848 嘉永 一 | 嘉永年間に鍵屋源七(号久楽)鷹司関白殿下に召され、御前にて茶器をする 丹山青海、粟田中之町に築窯 | 四代清水六兵衛誕生 嘉永年間、京焼の地場問屋「五条焼物仲間」組織される | ||
1851 嘉永 四 | ロンドンにて万国博覧会開催 真葛長造歿 | |||
1853 嘉永 六 | 丹山青海、青蓮院宮が陶器物産会所を開設する際に同所の御用陶器師となる | 徳川家慶没 ペリー浦賀に来航 | ||
1854 安政 一 | 十一代永楽保全歿(六十才) 十代旦入歿(六十才) | |||
1855 安政 二 | 五月二六日、二代高橋道八(光時)〈松風亭・華中亭・法螺山人・仁阿弥道八〉、没(七三才) 並河靖之、並河靖全の養嗣子となり、青蓮院宮(のちの久邇宮)近侍として朝彦親王の仕える | |||
1857 安政 四 | 寶山文蔵、青蓮院宮より泰平の号を拝領する | |||
1858 安政 五 | 鍵屋源七久楽、粟田口蹴上の一文字屋喜兵衛の窯を買取り、家督を譲り受ける | 徳川家定没 | ||
1859 安政 六 | 十二代鍵屋源七歿 | 井伊直弼『茶湯一会集』著 | ||
十三代鍵屋源七久楽 | ||||
1860 万延 一 | 二代清水六兵衛歿(七一才) | 表千家十代吸江斎宗左没 | 井伊直弼、桜田門外の変で横死 | |
1861 文久 一 | 七代帯山与兵衛歿 | |||
1862 文久 二 | 二代長谷川美山歿 □代岩倉山(錺屋)吉兵衛歿 | ロンドン万国博覧会開催(日本正式参加) | ||
1863 文久 三 | 初代伊東陶山粟田口に開窯 | 初代清風与平歿 | ||
1866 慶応 二 | 徳川家茂没 | |||
1867 慶応 三 | 初代伊東陶山、祇園近くの白川畔に『陶山』の号を以て店を開く | パリ万国博覧会に政府正式参加 | 大政奉還 |
明治以降
西暦 和暦 | 粟田焼関係事項 | 他の焼物に関係する事項 | 茶道関係事項 | 一般事項 |
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1868 明治 一 | ワグネル、長崎に来訪 | 戊辰戦争 | ||
1869 明治 二 | 丹山青海、紀州男山窯に赴く | 三代高橋道八、佐賀藩に招かれ京焼彩画法を伝える | 藪内流八代竹猗紹智没 | |
真葛焼(横浜)起る | ||||
1870 明治 三 | 舎密局設置される 五月十六日、五代高橋道八(勇之助)〈華中亭道八〉誕生 | |||
1871 明治 四 | 廃藩置県 | |||
1872 明治 五 | 錦光山、帯山ら海外貿易の緒を神戸の居留地外人と開く 丹山青海、『陶器弁解』を著わす 第一回京都博覧会開催。錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、高橋道八ら作陶を実演。丹山青海ら受賞 錦光山宗兵衛、丹山青海ら「職業出精ノ者」として京都府より表彰される | 十月、政府、翌年のウイーン万国博覧会への出品物を製作するために浅草に博覧会事務局附属磁器製造所(東京錦窯)を建設 | 裏千家玄々斎宗室「茶道の原意」京都府知事に提出 玄々斎宗室、立礼式を考案 | |
1873 明治 六 | ウィーン万国博覧会(オーストリア)開催。粟田五条陶工の名で有効賞胚牌を受賞。この時、丹山陸郎、政府参加派遣使に選ばれる 伊東陶山、宇治の朝日焼を復興する | 並河靖之、七宝製作を始める 7月、博覧会事務局附属磁器製造所(東京錦窯)閉鎖 8月、博覧会事務局附属磁器製造所の陶画工をそのまま引き継ぎ、河原徳立が中心となって東京深川に瓢池園、設立 | ||
1874 明治 七 | □代岩倉山吉兵衛(文作)没 | 藪内家九代竹露紹智没 | ||
1875 明治 八 | 丹山陸郎研修より帰国。この時石膏型成形法・絵付用水金等を日本に伝える 第四回京都博覧会より丹山青海、高橋道八ら審査員となる。錦光山宗兵衛ら受賞。 五代錦光山(丸屋)長兵衛没(七七才) | 有田香蘭社創立 | ||
1876 明治 九 | 錦光山、幹山が西洋風上絵具を採用する 第5回京都博覧会より審査員に寶山文蔵ら加わる 丹山青海、幹山伝七、金谷五郎三郎ら勧業場御用掛となる フィラデルフィア万国博覧会(アメリカ)開催。丹山青海、錦光山宗兵衛、辻長右衛門、帯山与兵衛ら出品 | |||
1877 明治 十 | 第1回内国勧業博覧会(東京)開催。丹山青海ら受賞 鍵屋源七、粟田口梅宮町に貿易商店を開く 伊東陶山、墨画濃淡焼付法を発明 六代暁山忠兵衛(一文字屋)没。一文字屋廃業 二代岡田久兵衛没(六一才) | 西南戦争勃発。薩摩焼に影響 初代真清水蔵六歿(五六才) 第1回内国勧業博覧会(東京)開催。並河靖之、鳳紋賞牌受賞 | 裏千家十一代玄々斎宗室没 | 西南戦争 |
1878 明治十一 | ワグネル、舎密局に招聘される パリ万国博覧会(フランス)開催。丹山青海、並河靖之らが受賞 この頃粟田焼は幕末期の衰退状況から回復。全生産額の九割を輸出に向ける 八代帯山与兵衛歿 | 二代清風与平没 | ||
1879 明治十二 | シドニー万国博覧会(オーストラリア)開催。錦光山宗兵衛、高橋道八ら受賞 | 八月二日 三代高橋道八(光英道三)〈華中亭・法橋道八〉没(六九才) | ||
1880 明治十三 | 三代清水六兵衛の次男龍三郎、帯山与兵衛家に養子として迎えられる | |||
1881 明治十四 | 第二回内国勧業博覧会(東京)開催。帯山与兵衛、錦光山宗兵衛ら受賞 | 三月四日 六代高橋道八(英光)〈華中亭道八〉誕生 | ||
1882 明治十五 | 丹山陸郎、研修のため再度渡欧(十九年帰国) | |||
1883 明治十六 | アムステルダム万国博覧会(オランダ)開催。錦光山宗兵衛、安田喜三郎、帯山与兵衛、丹山陸郎、伊東陶山ら受賞 | 三代清水六兵衛没(六四才) 三浦竹泉開窯 | ||
十四代安田源七(鍵屋)没 | ||||
1884 明治十七 | 六代錦光山(丸屋)宗兵衛没(六二才) | このころ森村組(後のノリタケカンパニー)、東京の瓢池園と絵付けの専属契約を結ぶ | ||
1885 明治十八 | イギリス万国博覧会開催。丹山青海、帯山与兵衛ら受賞 | |||
1886 明治十九 | 粟田に艮組合設立 | 五条清水に巽組合設立 五条坂に陶磁器蒐集場を設置 | ||
京都陶器会社設立 | ||||
1887 明治二十 | 丹山青海没 | |||
三代長谷川美山没 | ||||
1888 明治二一 | バルセロナ万国博覧会(スペイン)開催。安田源七、錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、伊東陶山ら受賞 | |||
1889 明治二二 | パリ万国博覧会(フランス)開催。帯山与兵衛、錦光山宗兵衛、楠部千之助、伊東陶山、安田源七、高橋道八ら受賞 十六代寶山文蔵(泰平)歿(七十才) | |||
1890 明治二三 | 幹山伝七没(七十才) | |||
1891 明治二四 | 伊東陶山、本窯色絵釉料を発明 | 武者小路千家七代全道宗守没 | ||
1892 明治二五 | ワグネル東京にて没 | |||
1893 明治二六 | シカゴ・コロンブス記念万国博覧会(アメリカ)開催。丹山陸郎、伊東陶山、錦光山宗兵衛、安田源七、帯山与兵衛、高橋道八ら受賞 | |||
1894 明治二七 | 京都陶磁器商工組合結成。(初代組合長、錦光山宗兵衛)艮組合、巽組合廃止 | 日清戦争勃発(~九五) | ||
帯山与兵衛家廃業 | ||||
1895 明治二八 | 第四回内国勧業博覧会開催。安田源七、伊東陶山ら受賞 | |||
1896 明治二九 | 京都陶磁器試験場設立(五条坂) 錦光山宗兵衛、伊東陶山、安田源七、高橋道八ら商議員となる 鍵屋源七、鍵屋喜三郎、輸出向陶磁器の製造販売を行うために京都陶磁器合資会社を設立 | 並河靖之、帝室技芸員に任命される 十二代永楽和全没(七六才) | 益田鈍翁、東京品川御殿山の自邸にて「大師会」をはじめる | |
1897 明治三十 | 錦光山宗兵衛、この頃より輸出向日用品陶器を制作 | 七月二六日、四代高橋道八(光頼)〈華中亭道八〉没(五三才) | ||
丹山陸郎歿(四四才) | ||||
1898 明治三一 | 武者小路千家八代一叟宗守没 | |||
1899 明治三二 | 伊東陶山、緑綬褒章を受賞 | 京都陶器会社解散 | ||
1900 明治三三 | 諏訪蘇山、錦光山工場に招かれ九谷より移る パリ万国博覧会開催。アールヌーボー様式が登場。錦光山宗兵衛、宮永東山ら視察。錦光山宗兵衛、宇野仁松ら受賞 | |||
1901 明治三四 | 宮永東山、錦光山工場の顧問として迎えられる | |||
1902 明治三五 | 十一代楽慶入歿 | |||
1903 明治三六 | 第五回内国博覧会(大阪)開催。錦光山宗兵衛、アール・ヌーボー様式の花瓶を出品 伊東陶山、錦光山宗兵衛、宮永東山ら「遊陶園」を結成 | |||
1904 明治三七 | 京都市陶磁器試験場、粟田陶器の改良に取り組む | 日露戦争勃発(~05) | ||
1905 明治三八 | リェージュ万国博覧会(ベルギー)開催。錦光山宗兵衛ら受賞 | |||
1906 明治三九 | 河原徳立、親戚の実業家広瀬満正と共同経営で京都瓢池園製陶所を東山区三条通白川橋東入八丁目西小物座町三一二番地に設立 | 岡倉天心の『THE BOOK OF TEA』がニューヨークで出版される | ||
1907 明治四十 | 伊東陶山ら佳美会を結成 伊東陶山、錦光山工房を退き独立。始め五条坂にて製陶。その後三条白川筋に店舗と工場を移す この頃伊東翆壺、二代伊東陶山の門に入る | |||
1910 明治四三 | 十一月二一日、七代高橋道八(光一)〈華中亭道八〉誕生 | 表千家十一代碌々斎宗左没 | ||
1912 明治四五 | 伊東陶山久邇宮邦彦殿下より「陶翁」の号及び金印、銀印を賜る | |||
1912 大正 | この頃より京都市東山区蛇ケ谷辺りに開窯始まる。 | |||
1913 大正 二 | 農商務省第一回図案及び応用作品展覧会開催。伊東陶山、河村蜻山、板谷波山、清水六兵衛、河合榮之助ら出品 | 徳川慶喜没 | ||
三条通の東山線以東南側の拡張工事行われる | ||||
1914 大正 三 | 第一次世界大戦勃発(~一八) | |||
1915 大正 四 | 河村蜻山、粟田から伏見深草に移り築窯 二代安田喜三郎歿 | 初代三浦竹泉没 十一月二二日、五代高橋道八(勇之助)〈華中亭道八〉没 | 京都鷹ケ峯光悦寺にて「光悦会」開かれる | |
1916 大正 五 | 河原徳立没 | |||
1917 大正 六 | 伊東陶山、諏訪蘇山、帝室技芸員となる | 裏千家十二代直叟宗室没 藪内家十代竹翠紹智没 | ||
1918 大正 七 | 伊東翠壺、二代伊東陶山の婿養子となる | |||
1919 大正 八 | 京都市陶磁器試験場を国立陶磁器試験場に昇格 | この当時の京都の陶磁器関係職工数2430人 この頃、蛇ヶ谷辺りの築窯12基。素焼窯数40基、ロクロ200台を越える | 米騒動 | |
1920 大正 九 | 楠部彌弌、河合榮之助、河村己多良、八木一艸、荒谷芳景、道林俊正らと共に『赤土』結成 初代伊東陶山、洛東山科鏡山に築窯。初窯の三日後に歿する(七六才) | 四代清水六兵衛没(七三才) | ||
1922 大正十一 | 九代帯山与兵衛歿 | 初代諏訪蘇山没 | ||
1923 大正十二 | 夏、清水焼労働組合による争議 | 裏千家十五代鵬雲斎宗室誕生 | 関東大震災 | |
1924 大正十三 | パリ万国博覧会(フランス)開催。楠部彌弌ら受賞 | 夏、清水焼労働組合による争議 | 裏千家十三代鉄中宗室没 | |
1925 大正十四 | 夏、清水焼労働組合による争議 | |||
1927 昭和 二 | 七代錦光山宗兵衛、貿易振興に尽し緑綬褒章を受賞し、従六位に叙せられる | 並河靖之没(八三才) | 岡倉天心の『THE BOOK OF TEA』が『茶の本』として日本語に翻訳される | 第一次金融恐慌起こる |
1928 昭和 三 | 七代錦光山宗兵衛歿(六一才) | |||
1929 昭和 四 | 世界恐慌 | |||
1931 昭和 六 | 伊東翆壺、五条坂に築窯 三条通の東山線以東北側の拡張工事行われる 十八代寶山泰造歿 | 満州事変勃発 | ||
1932 昭和 七 | 十五代安田源七没 | 十二代樂弘入没(七六才) | ||
1935 昭和 十 | この頃錦光山商店閉鎖 | |||
1936 昭和十一 | 藪内家十三代竹中紹智誕生 | |||
1937 昭和十二 | 十七代寶山熊之助(昌平)没(八九才) 二代伊東陶山没(六六才) | 表千家十二代惺斎宗左没 昭和北野大茶の湯開かれる | 支那事変勃発 | |
1938 昭和十三 | 十二月六日 八代高橋道八(光晴)〈華中亭道八〉誕生 | 表千家十四代而妙斎宗左誕生 益田鈍翁没 | ||
1940 昭和十五 | 楠部千之助、粟田神社参道三条通入口角に「神社由緒書舎」を奉納 楠部千之助歿(八一才)楠部陶器貿易工場廃業 藤平正一、通称俣野窯(登記簿上は安田修次郎)を譲り受け製陶 | 利休三百五十回忌 | 奢侈品禁止令 | |
1941 昭和十六 | 初代宮永東山没(七三才) 三月六日 六代高橋道八(英光)〈華中亭道八〉没 | 第二次世界大戦勃発(~四五) | ||
1942 昭和十七 | 「企業整備」により京都陶磁器工業組合員は63の企業体に整備統合される | 藪内家十一代竹窓紹智没 | ||
1943 昭和十八 | 政府による企業合同により藤平窯業有限会社が生まれる | |||
1944 昭和十九 | 八代錦光山誠一郎没(四八才) | 十三代樂惺入没 | 7月 防空法施行 9月 第一次建物疎開により870戸の家屋撤去 | |
1945 昭和二十 | 藤平正一、粟田での製陶(粟田最後の登り窯)を終え、以後五条坂にて製陶 | 1月16日午後11時23分頃 B29により京都市東山区馬町辺り空襲される。死者41名。負傷者48名全半壊家屋141戸。被災者総数729名におよぶ。 3月18日 第三次建物疎開。堀川通り西側・京都駅南口付近・御池通り南側・五条通り南側。201999坪約1万戸強制立ち退きさせらえる。二間(3.6m)幅の五条通りがこの疎開で60m幅に。五条坂は1261戸が強制疎開。町の半分が崩壊。 | 武者小路千家十一代不徹斎宗守没 | 1月 第二次建物疎開により256戸疎開 ポツダム宣言 終戦 |
1953 昭和二八 | 京都陶磁器合資会社倒産 | 武者小路千家九代聴松宗守没 | ||
1954 昭和二九 | 河村蜻山、鎌倉に移り、築窯 | |||
1959 昭和三四 | 三月二日 五条大橋竣工、 五代清水六兵衛没(八五才) | |||
1962 昭和三七 | 楠部彌弌、芸術院会員となる | 山科に清水焼団地構想実現化 | ||
1963 昭和三八 | 富本憲吉没(七七才) | |||
1964 昭和三九 | 裏千家十四代淡々斎宗室没 | |||
1966 昭和四一 | 河井寛次郎没(七七才) | |||
1967 昭和四二 | 河村蜻山没 | |||
1969 昭和四四 | 楠部彌弌、京都市文化功労者となる | |||
1970 昭和四五 | 三代伊東陶山歿(七十才) | 万国博覧会(大阪)開催 | ||
1971 昭和四六 | 藤平正一没 | 京都府公害防止条例公布。登り窯の使用が規制される | ||
1978 昭和五三 | 楠部彌弌、文化勲章受章 三代安田喜三郎没(八六才) | |||
1979 昭和五四 | 表千家十三代即中斎宗左没 藪内家十二代竹風紹智没 | |||
1980 昭和五五 | 四月十七日 六代清水六兵衛没(八十才) 十四代樂覚入没(六一才) | |||
1982 昭和五七 | 十九代寶山泰之助(高臺)没(七五才) | |||
1910 昭和五八 | 一月二六日 七代高橋道八(光一)〈華中亭道八〉誕生 | |||
1984 昭和五九 | 楠部彌弌没(八七才)従三位に叙せられ、銀杯を下賜される | |||
1985 昭和六十 | 三月三十日 「清水焼発祥之地五条坂」記念碑除幕(揮毫、七代清水六兵衛氏) | |||
1989 平成 一 | 十一月十八日「粟田焼発祥之地」碑建立並びに同記念図録発刊 | |||
「粟田焼発祥之地」碑建立並びに同記念図録発刊に尽力した粟田焼研究家、小川金三没 | ||||
1990 平成 二 | 利休四百回忌 | |||
1999 平成十一 | 四代安田嘉徳没(七三才) | 裏千家十五代家元夫人千 登三子没(浄光妙登大姉) 武者小路千家十代有隣斎宗守没 | ||
2000 平成十二 | ||||
2001 平成十三 | ||||
2002 平成十四 | ||||
2003 平成十五 | 並河靖之七宝記念館開館 | 裏千家十六代坐忘齋家元家元継承 裏千家擔泉齋月澗宗晃居士、伊住宗晃宗匠没 |
『松屋会記』・・・・・・・・・・松屋久政、久好、久重三代にわたる会記。1533年(天文二)より書き始められる。
『天王寺屋会記』・・・・・・津田宗達、宗及、宗凡三代にわたる会記。1548年(天文十七)より書き始められる。
『隔蓂記』・・・・・・・・・・・金閣寺の住職、鳳林承章が1635年(寛永十二)~1668年(寛文八)までの間書き続けた日記
『三菩提院御記』・・・・・・奈良春日社の宮司、水谷川忠麿が、真敬法親王の日記をこう名付け、茶の湯と焼き物関係の記事を抄出しては翻刻し、『日本の茶道』に連載をしたもの。
真敬法親王・・・・・・・・・・後水尾院の第十三皇子で、奈良の一乗院門跡
『一乗主人日次記』・・・・『三菩提院御記』の別称
『槐記』・・・・・・・・・・・・・近衛家当主家熈(いえひろ)の述懐を侍医山科道安が記録したもので、1724年(享保九)書き始められる。
主な参考文献
『京焼百年の歩み』 (財)京都陶磁器協会
『茶の湯と京焼Ⅰ仁清・乾山・古清水』 茶道資料館
『茶の湯と京焼Ⅱ仁阿弥・保全を中心に』 茶道資料館
『明治の京焼』 京都府総合資料館
『茶の湯ーにほんの心』展 京都文化博物館・京都新聞社
『野々村仁清展』 石川県立美術館・MOA美術館
『国宝 仁清の謎』 岡佳子著 角川叢書
『チャート茶道史』 谷端昭夫著 淡交社
『乾山 幽邃と風雅の世界』 MIHO MUSEUM