- 青木木米(あおきもくべえ)
- 伊東陶山(いとうとうざん)
- 岩倉山(いわくらざん)
- 一文字屋 [曉山(ぎょうざん)]
- 錦光山(きんこうざん)
- 楠部(くすべ)
- 三文字屋(さんもんじや)
- 帯山(たいざん)
- 高橋道八(たかはしどうはち)
- 丹山(たんざん)
- 雲林院宝山(ほうざん)
- 松本(まつもと)
- 鍵屋安田源七(やすだげんしち)
- 安田喜三郎(やすだきさぶろう)
青木 木米(あおき もくべい)
明和4年(1767)京都祇園新地縄手町の茶屋「木屋」の長男として生れる。幼名は八十八。後に家督を継いで代々の名、青木佐兵衛を名乗り、これらにちなんで青木木米といった。彼の用いた号は数多く、父の出身地美濃国久々利村に因んで「九々鱗」、青木の姓から「青来」、古器鑑賞の趣味から「古器観」、晩年に耳が聾したことから「聾耳」などと称した。
少年の時に高芙蓉の許に遊び、古器物を鑑賞する事を学ぶ。また、作陶を志す以前に鋳金の技法を初代龍文堂(1798歿)に習った。文化・文政時の京焼の復興期に当たって、煎茶趣味の勃興は木米の文人画と共に作陶の技は高く評価されることになる。
木米の人生を大きく変えることになるのは、京阪第一の蔵書家であった木村兼葭堂を訪ねて、その蔵する龍威秘書の中に朱笠亭の陶説を読んで大いに感銘を受け、それより陶を志すことになったのである。
奥田頴川や寶山文造に学び、寛政8年頃(1796)粟田口東町に開窯。文化二年(1805)には早くも粟田青蓮院宮の御用を拝命されるほどになり、翌文化三年には加賀窯業復興のため、加賀に招聘されて、青磁、金襴手、色絵などを焼く。それらの作品には木米印のほか「金府」あるいは「金陵辺」の刻銘、「金城精製」などの署名がある。
木米は先述の木村兼葭堂や頼山陽、田能村竹田、その他の文人と交際があり、その影響をうけた陶工であると共に、大いなる文人画家であった。
因って、彼の作風は当時流行した煎茶趣味のものが多く、青磁・染付・交趾・赤絵・金襴手などがあり、轆轤物のほか型物も多く手がけている。また、比較的数は少ないが茶の湯の道具も手がけている。天保4年(1833)歿67才。洛東鳥辺山に建てられた彼の墓碑には篠崎小竹が「識字陶工木米之墓」と題し、彼の生涯を語っている。
伊東 陶山(いとう とうざん)
初代は、伊東善輔の長男として弘化三年粟田に生まれる。名は重太郎、後幸右衛門と改める。十二才の時、円山派の画家、小泉東岳に師事。東岳とその妻が生計のため行っていた茶碗絵付手拈土瓶造りに共に従事し、文久三年、画家から陶磁の世界に移り、五条坂の亀屋旭亭に師事。その他三代高橋道八・村田亀水・幹山伝七・帯山与兵衛・一文字屋忠兵衛・岩倉山嘉兵衛などを訪ね、慶応三年(1867)祇園近くの白川に店を構えた。
明治六年には宇治の朝日焼の復興を松林長兵衛より嘱され行っている。
明治三二年には緑綬褒章を受章。
明治四二年には三条白川筋に店舗及び工場を移す。
明治四五年、久邇宮邦彦殿下より「陶翁」の号を賜り、併せて金印・銀印御下賜の栄に浴す。
大正六年、帝室技芸員に挙げられる。
大正八年、近江膳所焼の復興を助けたが、前年より洛東山科鏡山に築窯し、翌九年七月竣工。初窯の開いた三日後、七六才にて永眠した。
二代は元膳所藩南本田家で代々家老職を勤めた家に明治四年生まれ、初代陶山の長女ふじの婿養子となる。内海吉堂画伯について日本画を習得し,初代の遺風をついで帝展・日展の審査員をつとめた。
昭和七年八月、三条広道の良恩寺にて、茶道月報社主催『粟田焼に就いて』の講演会を行ったが、詳細はいずれこのホーム・ページで復刻したい。
また同年十一『「陶山餘香』(初代陶山小伝)を刊行。
昭和十二年、66才にて没する。
三代は二代目の長男として明治三三年に生まれる。名は信助。
大正七年京都市美術工芸学校絵画科を卒業。祖父及び父陶山に陶芸を学ぶ傍ら大江良起について絵画を修める。
昭和四年帝展初入選。昭和八年帝展特選を受賞。同作品は皇后陛下お買い上げとなる。
昭和十三年三代陶山を襲名。
昭和二八年楠部彌弌、宮下善寿、叶光夫、浅見隆三らと博埴会を結成。
昭和二九年現代陶芸展招待出品。
昭和三三年真日展出品作はソ連博物館が買い上げる。
昭和三七年日展審査委員を務める。
昭和四五年七十才にて歿。
三代には二女がいたが、長女喜子は昭和二四年奈古屋家へ、次女幸子は昭和二七年福谷家に嫁いだ。