粟田焼の作品集


いずれは時代別に作成したいと考えていますが、まだコレクターの方々にあまり撮影させていただいておりません。m(_ _)m

銹繪染付十六菊燗鍋
帯山印
(江戸時代)

粟田焼にはこうした十六菊の御紋をあしらった作品が多く見受けられる。この燗鍋(銚子)の形は本来漆器のものであろう。京焼ではこのように他の素材で出来ているものの形を写したり、また、染め物のデザインを取り入れて絵付をするといった事が良く行われてきた。

違い鷹羽紋花入一双
宝山印
(江戸時代)

粟田祭の際、東小物座町の剣鉾『鷹羽鉾』のお飾りに使用している。極めて細かい粟田土を使用し、薄く成形されているため、非常に軽い。雲林院宝山作

銹繪染付散紅葉盃洗
岩倉山印
(江戸後期)

盃洗の風習は江戸後期以降。また岩倉山は明治初期に廃業していることからこの作品は幕末・明治の頃の作品と思われる。この作品を一周させてみると必ず一枚は何処かに紅葉が見える。必要にして最小限の絵付けで、私のお気に入りの一品である。。

銹繪染付草花紋皿
岩倉山印(共箱)
(江戸後期)


涼炉
久樂作
(江戸後期)

十三代鍵屋源七、久樂の作品(私の五代前)。
「久樂」という銘は同時代に粟田に程近い近江の国、坂本に弥助という人物がおり、彼も「久樂」と名乗っている。彼は二代目で初代は享和年間(1716〜36)の人。同時代の極近距離に同銘の人物がいた事になり、詳しいことは今後の研究の課題である。(坂本の方は親子と聞くが時代的にチョット離れているかなぁ・・・)

同印

(はっきり写ってなくてスミマセン。m(_ _)m)
2人の久樂が別人として・・・共に名工の聞こえがある。坂本の久樂(二代弥助)は永楽保全らと共に紀州徳川家の御庭焼、偕楽園焼に携わり、藩主徳川治宝より久樂の印を賜っている。
また粟田の久樂は幼名を久次郎。関白鷹司公の御庭焼を勤め、恩寵の品があったと聞いている。安政6(1859)年7月28日61才で没している。敬誉至慎久樂居士

茶碗
久樂作
(江戸後期)

ウチの家では「久樂さんのお茶碗」と呼ばれているもの。印は無いが、祖父から曾祖父の作品と聞いている。轆轤引き、高台の削り、釉薬がけ、釉調など見習う点は多い。お茶を良くした陶工の作であることが感じられる。
彼自身、茶碗には自信があったようで「桑折に一杯茶碗を造っておいたら、次の代は(食べて)いけるだろう」と言っていたと祖父より聞く。
安政5年に蹴上の一文字屋窯を買い取るなど、なかなかの遣り手で、良い仕事をしたことは間違いなさそうである。

人物図壺一双
東・安田造
(明治時代)

一見、同じ柄の一双の飾り壺のように見えるが、絵柄が違う壺である。

百蝶繪一輪生
楠部千之助窯
(明治・大正頃)

芸術院会員にまでなられた故楠部彌弌氏の父の工房作品。

同書銘

花鳥繪長皿
京都陶磁器合資会社製
(明治・大正頃)




同部分

精緻を極めた絵付

同書銘

『大日本京都陶磁器合資会社 亮山』とある。亮山は絵師。また、一番上の字は会社のトレードマークである。
1910年の外国の雑誌にこのトレードマーク入りの広告を出しているのを見かけたことがある。今から90年も前に海外の雑誌に広告を出していた例は少ない方ではないだろうか。

美人繪皿
錦光山印
(明治・大正頃)

この作品には粟田焼の特徴の一つの貫入が入っていない。貫入があるために海外で「汚れる」と敬遠され、明治三十年頃より京都の工業試験場で貫入の入らない調合を研究している。この作品はその例であろう。国内外に多数同様の作品が伝わっている。

同部分

絵変わりの作品も伝わっている。

銹繪草花紋蛤香合
東 安田造

小学校の何時だったか、ウチの炭小屋の前を父と掃除していたら出てきた作品のように記憶している。
ウチにしては小さく雅味のある銹絵の香合で裏に「  」とある。

唐獅子香炉

獅子摘み水次ぎ


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